北海道の馬
2007年12月03日
<馬を描いた画家>
<馬を描いた画家>
※畠中露山(1887年~1958年)…
…北海道の農家では、本州に比べると機械化が遅れ、馬による農耕が行われていたため、割と最近まで馬が身近な動物で、いなくてはならない家族でした。
畠中露山は、愛媛県越智郡生まれ。実家は煙草の栽培農家。大正初期に現在の陸別町へ移住。始めは材木商のもとで馬追いをしていたが、やがて独学で絵を学び、道東・道北を渡り歩いて、各地の農家で作物や宿と交換に、その家の自慢の農用馬を描いたという画家です。
昭和初期に現在の札幌市白石区菊水に居を構えたが、その後も旅の生活は続いたそうです。
札幌の北海道開拓記念館の特別展・「HORSE 北海道の馬文化」(2006年)にて、札幌相馬神社の愛馬講社の一員が所蔵していた絵(「神馬図」)など数点が展示されていました。
現在親交が途絶えている為、断定はできないのですが、私の高校時代の農家(本別町・重種馬の牝を3頭飼っていました)の友達の家にも、それらしき立ち姿の馬の肖像画の絵が居間にかかっていました。
墨で描かれているようですが、馬の筋肉や毛艶が良く再現されて本物のようです。
四肢を揃えた立ち姿の構図の馬(馬図)はちょっと頭が小さく脚が細い感じですが。
四肢を広げて、脚を一本持ち上げて、こちらを見る構図の馬(神馬図)は、どこから見てもこちらを見ている「八方睨み」の目も相まって、生き生きとして、馬は杭に繋がれていながら非常に動きのある絵です。
※神田日勝(1937年~1970年)…
…ベニヤ板に描かれた、馬の後半身が未完成の絶筆・「馬」が有名で、この画家が暮らしていた鹿追町には記念館が建てられ作品が展示されているので、知っている方も多いでしょう。
開拓農家に育ち、兄も画家だそうです。
絶筆・「馬」の他にも、「開拓の馬」や「痩馬」など、馬を描いた作品が多いです。
画風は何種かありますが、上記馬の絵3点はリアルで骨太な印象です。
神田日勝記念美術館
※土井博詞(1925年~1997年)…
…幕別町で農家を営んでいましたが、病気で下半身不随になってから独学で水墨画を始め、以前飼っていた農耕馬を題材にした水墨画を数多く残しました。
幕別町の十勝馬まつりポスター・パンフレットにはこの方の絵が使われています。

十勝馬まつりポスター
横綱・大乃国の化粧まわしやホッカイドウ競馬のポスターにも採用されていたようです。
伸び伸び・生き生きとした馬の姿が特徴です。
幕別町明野の故人の自宅庭に、馬小屋と物置を改造した展示館があり、6千メートルにもなる巻物「馬の一生」や、馬群が描かれた屏風、逆に米粒に描いた小さい絵などが展示されています。(月曜休館・12月~4月は閉館)
土井博詞館
※P.S.土井博詞館は、経営していた奥様の体力的理由により、閉館したそうです(2008.4.24十勝毎日新聞より)。残念です。
※畠中露山(1887年~1958年)…
…北海道の農家では、本州に比べると機械化が遅れ、馬による農耕が行われていたため、割と最近まで馬が身近な動物で、いなくてはならない家族でした。
畠中露山は、愛媛県越智郡生まれ。実家は煙草の栽培農家。大正初期に現在の陸別町へ移住。始めは材木商のもとで馬追いをしていたが、やがて独学で絵を学び、道東・道北を渡り歩いて、各地の農家で作物や宿と交換に、その家の自慢の農用馬を描いたという画家です。
昭和初期に現在の札幌市白石区菊水に居を構えたが、その後も旅の生活は続いたそうです。
札幌の北海道開拓記念館の特別展・「HORSE 北海道の馬文化」(2006年)にて、札幌相馬神社の愛馬講社の一員が所蔵していた絵(「神馬図」)など数点が展示されていました。
現在親交が途絶えている為、断定はできないのですが、私の高校時代の農家(本別町・重種馬の牝を3頭飼っていました)の友達の家にも、それらしき立ち姿の馬の肖像画の絵が居間にかかっていました。
墨で描かれているようですが、馬の筋肉や毛艶が良く再現されて本物のようです。
四肢を揃えた立ち姿の構図の馬(馬図)はちょっと頭が小さく脚が細い感じですが。
四肢を広げて、脚を一本持ち上げて、こちらを見る構図の馬(神馬図)は、どこから見てもこちらを見ている「八方睨み」の目も相まって、生き生きとして、馬は杭に繋がれていながら非常に動きのある絵です。
※神田日勝(1937年~1970年)…
…ベニヤ板に描かれた、馬の後半身が未完成の絶筆・「馬」が有名で、この画家が暮らしていた鹿追町には記念館が建てられ作品が展示されているので、知っている方も多いでしょう。
開拓農家に育ち、兄も画家だそうです。
絶筆・「馬」の他にも、「開拓の馬」や「痩馬」など、馬を描いた作品が多いです。
画風は何種かありますが、上記馬の絵3点はリアルで骨太な印象です。
神田日勝記念美術館
※土井博詞(1925年~1997年)…
…幕別町で農家を営んでいましたが、病気で下半身不随になってから独学で水墨画を始め、以前飼っていた農耕馬を題材にした水墨画を数多く残しました。
幕別町の十勝馬まつりポスター・パンフレットにはこの方の絵が使われています。

十勝馬まつりポスター
横綱・大乃国の化粧まわしやホッカイドウ競馬のポスターにも採用されていたようです。
伸び伸び・生き生きとした馬の姿が特徴です。
幕別町明野の故人の自宅庭に、馬小屋と物置を改造した展示館があり、6千メートルにもなる巻物「馬の一生」や、馬群が描かれた屏風、逆に米粒に描いた小さい絵などが展示されています。(月曜休館・12月~4月は閉館)
土井博詞館
※P.S.土井博詞館は、経営していた奥様の体力的理由により、閉館したそうです(2008.4.24十勝毎日新聞より)。残念です。
at 12:36|Permalink│
2007年08月11日
<馬と産業と戦争>
<馬と産業と戦争>
北海道の産業と馬には大きな関わりがあります。
明治5年、北海道には9291頭の馬がいましたが、全部ドサンコでした。
つまり北海道の大地を切り拓く開墾にはドサンコが使われていたという事です。
畑ができれば耕し、道ができれば馬車を曳き、山の多い土地では背に荷物を括りつけて何頭も連ねて荷物を運ぶ「駄載」で活躍しました。
ドサンコは「ヂミチ」という片側の前足と後ろ足を同時に出す独特の歩様ができ、これがまた荷崩れせずに素早く移動できるので、尚更、「駄載」に向いていました。
また<ドサンコとばん馬~ルーツ>の所でも触れたように、ニシン漁やコンブ漁など漁業でも欠かせない運搬手段でした。
これらの漁では馬を海の中(浅瀬)にまで入れて、船から馬車へ水産物を載せ換え、馬車で陸へ持って行ったのです。
北海道がまだ原野に覆われていた頃、馬といえばドサンコだったのです。
しかし、明治2年に開拓使ができ、アメリカの畜力式農機を使った農業を広める為に、馬を大型化する必要があり、段々と外来種(洋種)との雑種化がすすみます。
背景には、開墾が進み、畑が広がり、馬の餌をたくさん取れるようになって大型馬の餌にも困らなくなった事が想像されます。
また戦争との関わりもあります。
明治初期、日本の軍馬は在来種を使っていました。
しかし、明治33年の北清事変に欧米諸国との連合軍に参加した時に、馬格や調教に劣っていた為、「日本軍は馬のような動物に乗っている」「あれは馬ではなく猛獣だ」などと外国の兵士に酷評されたそうです。
そこで国は明治39年、「馬政第一次計画」を打ち出し、北海道・東北や九州に種馬所などを整備し、欧米から輸入した優秀な種牡馬(ペルシュロン・アングロノルマン・トロッター・サラブレッド等)による馬種改良が図られました。
明治45年になると、道内の馬185000頭のうち、ドサンコは半分ほどで、残り半分はペルシュロンなどの外国の大型ばん馬や、馬車用の馬であるトロッターや、中間種のアングロノルマン等の外来種とドサンコの混血になっています。
また昭和11年には「馬政第二次計画」が始まり、昭和14年には「競馬法の臨時特例に関する法律」「種馬統制法」「軍馬資源保護法」が成立し、ますます国ぐるみで良い軍馬・農用馬作りが推し進められます。
北海道では日高(新冠)・十勝(音更)・長万部・根室・北見・釧路に種馬所が作られ、農家の馬はだんだん大きくなっていきました。
また、釧路(白糠)・川上(標茶)・十勝(本別)・根室には軍馬補充部が設置され、購買した2才馬を育てたり、農家から5才以上の馬を買い取ったりしました。
本別町には軍馬補充部がありました。
ここで育てられた馬は仙美里駅から戦地へ送られて行きました。
殆ど生還しなかった軍馬を偲び、当時の仙美里駅長だった方が本別町に軍馬慰霊碑を建てました。
本別から上士幌へ向かう道路の町外れの右側、家畜市場だった場所に建っています。
↓本別町の家畜市場でのお祭りばん馬大会。
(1993年ごろ)

また本別の軍馬補充部では、ロサンゼルスオリンピックの馬術大障害の金メダリスト・西竹一氏が1年4ヶ月を過ごしたそうです。
日本の馬が大きくなっていく一方で、ドサンコなどの在来種は数を減らしていきました。
特に体格の小さい馬は種馬でも去勢してしまう「種馬統制法」は痛手でした。
日本の在来種で最良といわれた南部馬も、この流れの中で昭和初期に絶滅してしまったのです。
しかしドサンコは北海道の農業に適しているとして、北海道庁長官が大正6年に馬政局長官に去勢猶予を願い出て、函館とその周辺(この地域ではドサンコの駄載による輸送が経済の要だった)と千島だけはドサンコの種牡馬の使用が認められ、なんとか絶滅をまぬかれました。
戦争で男手を取られて、農家では男手が足りなくなり、大きな馬を女の人が操るのは大変だという事で、釧路では神八三郎という方により、当時の農用馬とトロッター等をかけあわせた小格ばん馬「日本釧路種」が作り出されました。
この「日本釧路種」は日本人の体格に合っていて、小格でも力があると大変評判が良かったそうですが、今は見られません。
戦後まもなくトラクター等の機械の導入が進み、北海道の農家からも馬は姿を消していったのです。
釧路の西側の大楽毛駅に「日本釧路種」の等身大の馬像があり、その姿を残しています。
馬が軍馬として使われたため、国内の馬は激減してしまいました。
そこで戦後、地方競馬法が制定され、馬の増産が図られたのです。
この頃、競馬といってもサラブレッドではなく、トロッターによる速歩競馬もありましたが、今は衰退してしまって、釧路のあたりのお祭り競馬で見られるくらいです。
なお、農用馬・軍馬として活躍したアングロノルマン種はいつの間にか姿を消しました。
この種の故郷であるフランスでも、セル・フランセ種に統合されてしまったそうです。
私が小学校の図書館で見た子供向けの図鑑にも、車をひかせる馬として紹介されていたのですが…
旋丸巴さんの著書「馬映画100選」の中で絶賛されている邦画の名作「馬」の馬はアングロノルマン種だそうです。
機会があったら観てみたいものです。
北海道の産業と馬には大きな関わりがあります。
明治5年、北海道には9291頭の馬がいましたが、全部ドサンコでした。
つまり北海道の大地を切り拓く開墾にはドサンコが使われていたという事です。
畑ができれば耕し、道ができれば馬車を曳き、山の多い土地では背に荷物を括りつけて何頭も連ねて荷物を運ぶ「駄載」で活躍しました。
ドサンコは「ヂミチ」という片側の前足と後ろ足を同時に出す独特の歩様ができ、これがまた荷崩れせずに素早く移動できるので、尚更、「駄載」に向いていました。
また<ドサンコとばん馬~ルーツ>の所でも触れたように、ニシン漁やコンブ漁など漁業でも欠かせない運搬手段でした。
これらの漁では馬を海の中(浅瀬)にまで入れて、船から馬車へ水産物を載せ換え、馬車で陸へ持って行ったのです。
北海道がまだ原野に覆われていた頃、馬といえばドサンコだったのです。
しかし、明治2年に開拓使ができ、アメリカの畜力式農機を使った農業を広める為に、馬を大型化する必要があり、段々と外来種(洋種)との雑種化がすすみます。
背景には、開墾が進み、畑が広がり、馬の餌をたくさん取れるようになって大型馬の餌にも困らなくなった事が想像されます。
また戦争との関わりもあります。
明治初期、日本の軍馬は在来種を使っていました。
しかし、明治33年の北清事変に欧米諸国との連合軍に参加した時に、馬格や調教に劣っていた為、「日本軍は馬のような動物に乗っている」「あれは馬ではなく猛獣だ」などと外国の兵士に酷評されたそうです。
そこで国は明治39年、「馬政第一次計画」を打ち出し、北海道・東北や九州に種馬所などを整備し、欧米から輸入した優秀な種牡馬(ペルシュロン・アングロノルマン・トロッター・サラブレッド等)による馬種改良が図られました。
明治45年になると、道内の馬185000頭のうち、ドサンコは半分ほどで、残り半分はペルシュロンなどの外国の大型ばん馬や、馬車用の馬であるトロッターや、中間種のアングロノルマン等の外来種とドサンコの混血になっています。
また昭和11年には「馬政第二次計画」が始まり、昭和14年には「競馬法の臨時特例に関する法律」「種馬統制法」「軍馬資源保護法」が成立し、ますます国ぐるみで良い軍馬・農用馬作りが推し進められます。
北海道では日高(新冠)・十勝(音更)・長万部・根室・北見・釧路に種馬所が作られ、農家の馬はだんだん大きくなっていきました。
また、釧路(白糠)・川上(標茶)・十勝(本別)・根室には軍馬補充部が設置され、購買した2才馬を育てたり、農家から5才以上の馬を買い取ったりしました。
本別町には軍馬補充部がありました。
ここで育てられた馬は仙美里駅から戦地へ送られて行きました。
殆ど生還しなかった軍馬を偲び、当時の仙美里駅長だった方が本別町に軍馬慰霊碑を建てました。
本別から上士幌へ向かう道路の町外れの右側、家畜市場だった場所に建っています。
↓本別町の家畜市場でのお祭りばん馬大会。
(1993年ごろ)

また本別の軍馬補充部では、ロサンゼルスオリンピックの馬術大障害の金メダリスト・西竹一氏が1年4ヶ月を過ごしたそうです。
日本の馬が大きくなっていく一方で、ドサンコなどの在来種は数を減らしていきました。
特に体格の小さい馬は種馬でも去勢してしまう「種馬統制法」は痛手でした。
日本の在来種で最良といわれた南部馬も、この流れの中で昭和初期に絶滅してしまったのです。
しかしドサンコは北海道の農業に適しているとして、北海道庁長官が大正6年に馬政局長官に去勢猶予を願い出て、函館とその周辺(この地域ではドサンコの駄載による輸送が経済の要だった)と千島だけはドサンコの種牡馬の使用が認められ、なんとか絶滅をまぬかれました。
戦争で男手を取られて、農家では男手が足りなくなり、大きな馬を女の人が操るのは大変だという事で、釧路では神八三郎という方により、当時の農用馬とトロッター等をかけあわせた小格ばん馬「日本釧路種」が作り出されました。
この「日本釧路種」は日本人の体格に合っていて、小格でも力があると大変評判が良かったそうですが、今は見られません。
戦後まもなくトラクター等の機械の導入が進み、北海道の農家からも馬は姿を消していったのです。
釧路の西側の大楽毛駅に「日本釧路種」の等身大の馬像があり、その姿を残しています。
馬が軍馬として使われたため、国内の馬は激減してしまいました。
そこで戦後、地方競馬法が制定され、馬の増産が図られたのです。
この頃、競馬といってもサラブレッドではなく、トロッターによる速歩競馬もありましたが、今は衰退してしまって、釧路のあたりのお祭り競馬で見られるくらいです。
なお、農用馬・軍馬として活躍したアングロノルマン種はいつの間にか姿を消しました。
この種の故郷であるフランスでも、セル・フランセ種に統合されてしまったそうです。
私が小学校の図書館で見た子供向けの図鑑にも、車をひかせる馬として紹介されていたのですが…
旋丸巴さんの著書「馬映画100選」の中で絶賛されている邦画の名作「馬」の馬はアングロノルマン種だそうです。
機会があったら観てみたいものです。
at 21:09|Permalink│
2007年05月29日
ドサンコの新境地
ドサンコの新境地
9日の勝毎スポーツ熱戦グラフに載っていた十勝春季馬術大会・小障害飛越A優勝のドサンコのサブロウに一度だけ乗った事があります。
13年程前の話で、サブロウはまだ2才くらいの若馬でした。
サラブレッドやアングロアラブに比べ歩様が小さく、チョコチョコ歩き、トコトコ走り、一生懸命に前の馬について行こうとしていました。
特に駆け足が出る前の速歩は、それはそれは目まぐるしかったです。
背が小さいから乗り降りは楽でした。
口がうるさいので手綱はあまり動かすなと言われましたが、行きたい方へちょっと体重をかければ曲がってくれました。
その頃からサブロウはジムカーナをやっていましたが、障害も跳べるようになったんですね。
子供用にポニーの障害飛越馬というのはいますが、ドサンコで障害飛越は珍しいと思います。
そもそもドサンコに一番適しているのは駄載だと言われ、背に最高200kg近い荷物を2つ括りつけて数時間歩く事ができるそうで、北海道の電線の鉄塔を山に運んだのは殆どドサンコの駄載だったそうです。
駄載は道南で盛んでした。
戦争時代には、外国の馬に比べて体格が小さい為生産が規制されてしまいましたが、ホーストレッキングが盛んになってきた今は逆に、もともと小柄な日本人特に女性や子供にも乗りやすく安心感を与えるという事で見直されてきています。
しかも足腰が丈夫で、起伏のある地形を長い時間歩かせても根をあげません。
ホーストレッキングの牧場にはドサンコのみ、または殆どドサンコの所も道内にはいくつかあります。
十勝の芽室町や函館では流鏑馬競技にも活躍しています。
流鏑馬というと本州の神社の行事でサラブレッドのような軽種馬に乗ってやっているニュースは見た事がありますが、戦国時代に始まる競技ですから和種でやるのが本来の姿と言えるでしょう。
訓練すれば走るのだって結構速くなります。
道東ではドサンコの草レースが盛んだし、動物王国のドサンコは馬サッカーまでやります。
また近年道内で盛んになってきた長距離走・エンデュランス競技において、最も適しているとされる砂漠が原産の純血アラブ馬に混ざって、体は小さいがドサンコが上位を賑わしています。
一時期は絶滅の危機にあったドサンコ。
和種馬の中では数が一番多いとはいえ、楽観はできません。
馬は使われてこそ残るものなのだそうです。
この素朴で丈夫で多才な素晴らしい馬を後世に残す為にはこれからもドサンコに適した様々な用途を模索して広げていく事が大事です。

↑若かりし日のサブロウ
9日の勝毎スポーツ熱戦グラフに載っていた十勝春季馬術大会・小障害飛越A優勝のドサンコのサブロウに一度だけ乗った事があります。
13年程前の話で、サブロウはまだ2才くらいの若馬でした。
サラブレッドやアングロアラブに比べ歩様が小さく、チョコチョコ歩き、トコトコ走り、一生懸命に前の馬について行こうとしていました。
特に駆け足が出る前の速歩は、それはそれは目まぐるしかったです。
背が小さいから乗り降りは楽でした。
口がうるさいので手綱はあまり動かすなと言われましたが、行きたい方へちょっと体重をかければ曲がってくれました。
その頃からサブロウはジムカーナをやっていましたが、障害も跳べるようになったんですね。
子供用にポニーの障害飛越馬というのはいますが、ドサンコで障害飛越は珍しいと思います。
そもそもドサンコに一番適しているのは駄載だと言われ、背に最高200kg近い荷物を2つ括りつけて数時間歩く事ができるそうで、北海道の電線の鉄塔を山に運んだのは殆どドサンコの駄載だったそうです。
駄載は道南で盛んでした。
戦争時代には、外国の馬に比べて体格が小さい為生産が規制されてしまいましたが、ホーストレッキングが盛んになってきた今は逆に、もともと小柄な日本人特に女性や子供にも乗りやすく安心感を与えるという事で見直されてきています。
しかも足腰が丈夫で、起伏のある地形を長い時間歩かせても根をあげません。
ホーストレッキングの牧場にはドサンコのみ、または殆どドサンコの所も道内にはいくつかあります。
十勝の芽室町や函館では流鏑馬競技にも活躍しています。
流鏑馬というと本州の神社の行事でサラブレッドのような軽種馬に乗ってやっているニュースは見た事がありますが、戦国時代に始まる競技ですから和種でやるのが本来の姿と言えるでしょう。
訓練すれば走るのだって結構速くなります。
道東ではドサンコの草レースが盛んだし、動物王国のドサンコは馬サッカーまでやります。
また近年道内で盛んになってきた長距離走・エンデュランス競技において、最も適しているとされる砂漠が原産の純血アラブ馬に混ざって、体は小さいがドサンコが上位を賑わしています。
一時期は絶滅の危機にあったドサンコ。
和種馬の中では数が一番多いとはいえ、楽観はできません。
馬は使われてこそ残るものなのだそうです。
この素朴で丈夫で多才な素晴らしい馬を後世に残す為にはこれからもドサンコに適した様々な用途を模索して広げていく事が大事です。

↑若かりし日のサブロウ
at 12:19|Permalink│
2007年03月30日
ドサンコとばん馬~ルーツ
最近、ばんえい競馬に触れる機会が多くなり、北海道で馬が活躍していた時代の事を考える時間が増えました。
北海道の馬文化が、北海道遺産に登録されたのを機に開催された「北海道の馬文化」展(北海道開拓記念館)の図録、「頑張れドサンコ」(守谷久・北海道新聞社)、「馬たちの33章」(早坂昇治・緑書房)などの本を読み返しながら、頭の中を整頓してみようと思います。
皆さんの参考にもなれば幸いです。
<ドサンコとばん馬~ルーツ>
ばんえい競馬に使われている馬はドサンコだと思っている人も多いそうですが違います。
ドサンコは在来種(和種)で、正式には北海道和種といいます。
体高は130cmぐらいなので、国際的な分類でいうとポニーに入ります。
体重は350kg~400kgぐらいです。
ドサンコは、江戸時代に鰊漁などの為に東北地方から人と共に渡道し、冬になると人のみ引き揚げ、置き去りにされた馬(今は絶滅した南部馬)が、長い年月をかけ粗食と寒さに強い独自の種になったそうです。

↑新得山スキー場のドサンコ(ササ駆除の為、夏期に放牧される)

↑同じく新得山スキー場のドサンコ
一方のばん馬は、体高は160cm前後、体重は1000kg前後にもなります。
明治時代に本州から導入された農耕馬がはじまりだそうです。
明治のいつか、その農耕馬がどんな馬かはわかりません。
十勝においては、明治41年にフランス産のペルシュロン種・イレネー号が輸入され、音更町の現・十勝牧場で繋養され、18年間で559頭もの産駒を残し、それら子孫は十勝の開拓に大きな功績を残しました。

↑帯広競馬場の門の横に建つ、イレネー号の馬像
ばんえい競馬が始まったのは、昭和21年。
はじめは普段は町や山や畑で働く農耕馬を使っていました。
それから、フランス原産のペルシュロン種・ブルトン種・ベルギー原産のベルジャン種(ベルジャン種は他の2種よりは歴史が浅い)等の重種馬(大型の輓用馬)がかけあわされ、より大きく・力の強い馬へと改良されていったのです。

↑音更の十勝牧場の重種馬(芦毛の多いペルシュロンか)
北海道の馬文化が、北海道遺産に登録されたのを機に開催された「北海道の馬文化」展(北海道開拓記念館)の図録、「頑張れドサンコ」(守谷久・北海道新聞社)、「馬たちの33章」(早坂昇治・緑書房)などの本を読み返しながら、頭の中を整頓してみようと思います。
皆さんの参考にもなれば幸いです。
<ドサンコとばん馬~ルーツ>
ばんえい競馬に使われている馬はドサンコだと思っている人も多いそうですが違います。
ドサンコは在来種(和種)で、正式には北海道和種といいます。
体高は130cmぐらいなので、国際的な分類でいうとポニーに入ります。
体重は350kg~400kgぐらいです。
ドサンコは、江戸時代に鰊漁などの為に東北地方から人と共に渡道し、冬になると人のみ引き揚げ、置き去りにされた馬(今は絶滅した南部馬)が、長い年月をかけ粗食と寒さに強い独自の種になったそうです。

↑新得山スキー場のドサンコ(ササ駆除の為、夏期に放牧される)

↑同じく新得山スキー場のドサンコ
一方のばん馬は、体高は160cm前後、体重は1000kg前後にもなります。
明治時代に本州から導入された農耕馬がはじまりだそうです。
明治のいつか、その農耕馬がどんな馬かはわかりません。
十勝においては、明治41年にフランス産のペルシュロン種・イレネー号が輸入され、音更町の現・十勝牧場で繋養され、18年間で559頭もの産駒を残し、それら子孫は十勝の開拓に大きな功績を残しました。

↑帯広競馬場の門の横に建つ、イレネー号の馬像
ばんえい競馬が始まったのは、昭和21年。
はじめは普段は町や山や畑で働く農耕馬を使っていました。
それから、フランス原産のペルシュロン種・ブルトン種・ベルギー原産のベルジャン種(ベルジャン種は他の2種よりは歴史が浅い)等の重種馬(大型の輓用馬)がかけあわされ、より大きく・力の強い馬へと改良されていったのです。

↑音更の十勝牧場の重種馬(芦毛の多いペルシュロンか)
at 23:00|Permalink│